第80号 法政大学工学部同窓会報7/12(2010年8月17日) 印刷

第80号 法政大学工学部同窓会報を12回に渡り,毎週火曜日に公開していきます.

活躍するOB


昭和13年(1938年) 北海道増毛町生まれ
昭和37年 法政大学工学部電気工学科卒・NECを経て、静岡大学工学部、情報学部教授。2001年定年退官後、日本大学教授を経て、現在、非常勤講師として大学で情報科学、パズルを教える傍ら、執筆活動。工学博士(慶應義塾大学)
工学博士
元・静岡大学教授
吉田敬一

法政時代

 北海道の漁村から上京したのは、昭和33年。東京の生活は物珍しさで、生来の好奇心の強さを満たすのには十分だった。いまでも記憶に残っているのは、米の配給通帳持参がなければ、下宿をさせてもらえないことだった。何度か引越しをしているうちに、いつの間にか、通帳は不要になっていた。電気工学科には入学したが、ほんとうは数学科に行きたかったので、電気は最低限の勉強で、数学ばかり勉強していた。それが、のちに情報科学を専門とする際に、役に立った。卒論は「ブール代数」で、電子計算機の回路の簡略化で、指導教授は大河内正陽博士だった。これが生涯の仕事のきっかけになるとは、想像もしていなかった。

NEC、静岡大学時代

 卒業時になって、当時としては珍しいプログラムの職についた。プログラマという言葉すら一般的ではなかった時代である。電子計算機を使っていたのは、中央官庁と金融関係に限られていたが、肌が合いそうな証券会社を選んだ。ここで、3年プログラマとして働いた。そのときの上司が偶然に法政の機械工学科卒だったが、陸軍士官学校から、終戦で法政に入った経歴だけに、仕事は峻烈を極めた。部下に自殺者が出たとき、「彼のような弱者は、所詮、長くは生き延びれない」と云い放ったという伝説の人である。おかげで、部下の腕は上達した。しかし、月に200時間を越す残業を3年も続けたら、学問が恋しくなった。また、法政の大学院に入った。大学院では数学の平野鉄太郎研究室に所属し、コンピュータによる数値解析の研究をした。しかし、経済的に行き詰った。休学して、NECに入ってソフト開発や情報教育に携わった(1年後退学)。専門職の強い職場だったので、専門書を読む機会が増えた。企業という性質上、純粋に理論的なものよりも実践的な専門書が多かった。中途入社だったし、私の世代にコンピュータをやる人は少なかったので、社内での出世は早い方だった。入社して3年目、技術主任になって20人近い部下を持つようになった。私の場合、これが不安を引き起こした。部下を持つと、専門家としての仕事よりも、管理者としての仕事が増える。それから4年後、上司から技術課長昇格の話を匂わされた。もう辞めるしかない。38歳になっていた。学会誌で求人を探したら、静岡大学の工業短期大学部というところで、情報工学科の講師を募集しているのを見つけた。応募したら、かなりな応募者があったにもかかわらず運良く、採用になった。いまと違って当時は博士号が必須とはなっていなかった。運がよかった。しかし、苦しみはここから始まった。会社ではいっぱしの技術者として通用していたが、研究を始めてみて、研究者になるための情報科学の学問を体系的に修めていないことの脆弱さを思い知らされた。師匠を探さなければならぬ─これが私が考えついた解決策だった。私は、コンパイラ構文解析の権威者・東工大教授・井上謙蔵博士に体当たりした。私自身東工大の卒業でもないし、先生の知り合いでもなく、確たるコネもない、文字通りの体当たりだった。私の情熱が通じたのか、先生は快諾してくれた。それから、本格的な研究が始まった。すでに、40歳を過ぎていた。さいわい、有能な助手・竹内淑子さんにも恵まれた。書いた論文の一つが学会のベストペーパーに選ばれ、博士の学位を慶應義塾大学から授与された。やっと、一人前の研究者になれた。教授にも昇格し、学会の委員もやるようになった。一方、学内は組織編成があり、工学部教授、情報学部教授と振り回されたが、充実した毎日だった。しかし、「好事魔多し」の諺通り、個人的には生涯の傷となる大きな困難に遭遇した。この経緯は書けば長くなるし、不快な出来事であるので、ここでは書かない。こうした中で、定年を迎えた。引き続いて、日大教授に迎えられ赴任したが、長距離通勤で心身ともに疲れ果て、浜松市内の新設大学に移った。身体が楽になったので、静大時代の教え子たちの博士論文の指導の時間もとれ、執筆にも精が出るようになった。いつまでも若々しく輝く
 子供の頃から「書くこと」が好きだった。20歳代のある時期、作家を志して、女流作家に師事したこともあるが、才能のなさを痛感してあきらめた。その未練のせいか、本はよく執筆した。主として、自分の専門に関するものだが、なかでも「教養・コンピュータ」は2002年の時点で450大学で教科書に採用され、いまは第四版になって、なお売れ続けている。こうした専門書の中で、2009年に出した「大人のための名作パズル」(新潮新書)は私の著書の中では異色である。子供の頃の趣味が突然目覚めた。20冊目というキリのよい作品が趣味というのも偶然である。いまは、非常勤講師として、大学で情報科学とパズルを教えながら、二つの新聞に連載しているが、その一つが東京新聞への月一回のパズルの連載である。この連載も2年目に入って、今年の10月には3年目に入る。新聞社に寄せられたメールや手紙からみると読者層は11歳~89歳と、幅広い。略歴には必ず「法政大学工学部電気工学科卒」と学科名まで入れてもらっている。
 いつまでも若々しく輝く─これが私の信条である。今年(2010年)2月に出版された「『Cの壁』を破る!」は、専門入門書であるにもかかわらず、サミュエル・ウルマンの「青春の詩」を最後のページに挿入した。若い読者へのメッセージとするとともに、自分自身の励みとするためである。静岡大学の教授時代、見知らぬ読者から研究室に電話をいただいたことがある。訊けば、法政工学部の学生だという。生協で私の本の奥付を見て、先輩とわかり、声が聞きたくなったという。うれしい話である。彼は今頃、どうしているだろうか。偶然に、この記事を読んでいればなおさらうれしい。
 話は前後するが、20年ほど前、法政工学部のOB会で話をさせられたことがある。そのとき、私は「法政工学部の発展のために二つ大切なことがある」と述べた。一つは、一日も早く博士課程を持ち、自前の博士を育成すること。もうひとつは、工学部に数学科を入れて理工学部にすること。現在は博士課程も出来、理工学部にもなったが、数学科が出来ていないことは将来性を考えると、気がかりである。数学はかつては科学・工学の基礎であったが、現代ではあらゆる学問の基礎になったと思っている。一日も早い実現を待ちたい。