© © 2017-2024 法政大学理系同窓会, 184-8584 東京都小金井市梶野町3-7-2 管理棟4F Tel/Fax 042-387-6385

第11号 法政大学デザイン工学部都市環境デザイン工学科同窓会報を4回に渡り,毎週火曜日に公開していきます.

 

活躍するOB・OG

コンクリート屋として思うこと
月の泉技術士事務所 渡邉弘子(1987年卒)


 学校を卒業して20年以上が経ちました。この間、様々な理由から転職する必要が生じ、現在は通算で四つ目と五つ目の仕事の二足のわらじを履いています。そこで、「活躍するOG」というタイトルにはそぐわない内容になりますが、就職遍歴の話をしたいと思います。自分の行く末に不安を感じている後進のOGの皆さん、そしてこの時代、同じように悩んでいるかもしれないOBの皆さんの励みになれば幸いです。
 私は土木工学科を卒業して、まず電力コンサルタント会社に入社しました。当時、女性を技術職で採用してくれる会社などなく、採用されただけで幸運でした。これはひとえに恩師、小林正几先生のおかげです。ちなみに、私が今まで曲がりなりにも仕事を続けてこられたのは、いつもその時々に現れるキーパーソンに助けられてきたからです。コンサルタントの仕事は今思うと忙しいものでしたが、新入社員だけあって何をやっても新鮮で勉強になる時期でした。女性の土木屋はまだ珍しい時代で、直属の上司も先輩も私の扱いに悩んだことと思いますが、女性を理由に区別されることは全くなく、恵まれた環境で仕事することができました。ここでのスタートがなければ今の私はないはずで、心から感謝しています。失敗談はたくさんありますが、報告書に書かれた「研鑚」という字が読めず、「研鑚していない奴には読めないよ」と先輩に言われ、恥ずかしい思いをしたことを今でも覚えています。5年3ヶ月勤めましたが、一身上の都合により後ろ髪を引かれる思いで退職しました。退職する時は「次の就職は難しいだろうなあ」と暗雲立ち込める思いでした。
 その後、4ヶ月の無職期間を経て、建設会社に中途入社することができました。ちょうど技術研究所を拡張しているところで、「仕事していないなら入社試験を受けてみないか」と誘ってくださる方がいたからです。幸運にも人員補強の波に乗って採用されました。研究者として遅いスタートでしたが、毎日、自分でコンクリートを練ることのできる環境に恵まれ、楽しくて仕方ありませんでした。ただ、1年に1度ある社内研修には困り果てました。実は、建設会社に入るからには現場勤務に憧れていたのですが、入社当時既に28歳の私は、「そんな年食った素人なんて使えない」と現場から却下されていました。それが如何に正しい判断であるかを思い知らされたのが社内研修の場でした。社内研修は社内資格(経験年数,年齢,取得資格等)に応じて行われる研修ですが、建設会社ですので「現場をいかにうまく運営していくか」を共同で学ぶ場で、数人で構成する同じ班の人たちはほとんどが新人から現場勤務している人たちです。「土留めの計算できる?」「足場の数量拾える?」「クリティカルパス計算できる?」「おカネ積める?」もちろん、と言うのも図々しいですが,全てできません。研修センターに泊まり込みの1週間はとても長く、最終日である金曜日の昼食のカレーライスを見ると心底ほっとしたことを覚えています。約7年勤め、こちらも一身上の都合により後ろ髪を引かれる思いで退職しました。この時も、「次の就職はどうしようか」と悩みながらの退職でした。
 その後、同じように5ヶ月の無職期間を経た後、公的機関の研究所の任期付き研究員として採用されることができました。ちょうど新しいプロジェクトが立ち上がったところで、そのプロジェクトを遂行するための専門研究員の募集に「応募しないか」と声をかけてくださる方がいたからです。たぶん他に応募がなかったのでしょう、幸運にも採用されました。発注者側の立場になるのは初めてでやりにくいような気がしましたが、この時既に35歳であり、文字通り肚も太くなっていました。海生生物と共存するコンクリートについて研究するため,現地実験場の一つをわざわざ遠い熊本県の天草港に設け、年2回行く現場調査を楽しみにしていました。ただ、船に弱い私が港湾関係の研究業務に就くというのは無謀で、他の業務でも酔い止めの薬は手放せず、天草へ行くのも30分の航行が辛いため3時間のバス道を選んでいました。生物専門の研究者や港湾施設の監理者、地元の漁業関係者など違う分野の人たちと知り合う機会にも恵まれた楽しい3年間でした。
 遍歴は続きますが、次が現職です。任期付き研究員の任期が切れるのと同時に、仙台へ転居しました。ちょうど家人が転職することになり、その転職先が仙台だったからです。出張で数回行ったことのある杜の都仙台。豊かな緑、広い空、涼しい風、旨い酒に旨い米、あの素敵な街に住めるなんて何て幸運だろうと思いました。そして、失業保険をあてに遊び暮らすこと6ヶ月、だんだん無職の立場にも図太くなり、無職期間も長くなりました。しかし、さすがに家人から「そろそろ働いたら?」と促され、それもそうだと秋風の立つある日、自宅で技術士事務所を開きました。と言っても、税務署に行って「事務所開きます」と言っただけで、本心を言えばアリバイ工作に近いものでした。当然、所長一人、技術屋一人、営業屋一人、事務屋一人、掃除婦一人、もちろん全部私一人の超零細企業です。それでも口コミで開業を知った知人から仕事をいただき,細々と続けていくうちに本当に仕事が来るようになりました。大プロジェクトに関わることなど到底ありませんが、「地元の役に立つ草の根技術者になろう」と思い、今は東北大陸をゆるゆると(精力的にではない)回っています。
 そんなさなか、地元の大学の非常勤講師も引き受けることになりました。ちょうどコンクリートが専門の先生が海外留学されることになり、「学生実験の面倒を見る人手が足りないので2年間だけ来ないか」と誘ってくださる方がいたからです。初めは学生との距離の取り方に戸惑いましたが、この時ちょうど40歳、学生の母と思えば良いのだと気付くと遠慮なく叱れるようになりました。「2年間だけ」の約束が毎年更新されて早5年になります。いつまで続くかわかりませんが、続いている限りはコンクリートの楽しさ、ひいては土木の楽しさ、大切さを学生に伝えていきたいと思っています。
 そんなこんなで次々と職の変わってきた20数年でしたが、いつも就職する時は「この会社に定年までいよう」と思って就職しています。新卒で入ったコンサルタント会社では、入社1年目の春から財形貯蓄を始めて周囲に驚かれましたし、中途入社した建設会社でも毎月最大限の社内株を買って周囲にあきれられました。どちらも「長く勤めるから、いつか家を買おう、いつか役員になろう」と思ってのことです。任期付き研究員の時も任期を延長するよう画策しましたが、仙台に転居することが決まって断念しました。いつも自分で思うようには事の運ばなかった20数年です。それでも、気づけばコンクリート屋として今も働いています。そしてもう一つ気づいたことは、私の願いは「生涯一コンクリート屋」であればそれで良かったのだということです。
 これを読んでいる皆さんの中にも、「こんなはずじゃなかった」「この先どうしよう」と悩んでいる方がいるかも知れません。でも「後悔役に立たず」と言います(言いませんが)。気づいてみると、何回転職しようとも私の根っこはコンクリートでした。悩んでいる皆さんも自分の根っこに気づきさえすれば、地上部分がときどき萎れることがあっても、また伸びていくことができるのではないでしょうか。OG(OB)の皆さん、疲れていたらメールをください。他愛ない話でもしましょう。(hiw(アットマーク)ma.mni.ne.jp)