第25号 法友工体連会報を4回に渡り,毎週火曜日に公開していきます.
活躍する工体連OB (10) 私 と 空 手

工体連空手部師範 市野 彰俊(’69 空手部)
・剣道部から空手部へ 今から43年前、法政大学入学式の日に道場(屋上)を見学に行き、そこで空手というものを目にしたわけですが、目的は剣道部に入部するつもりでした。理由は高校時代は剣道をしていたのです。しかし、先輩方の稽古を見学している内に、大学ではこれだと感じました。 その場で入部をし、その日から稽古をさせていただいた訳です。そこには同期の宮崎君が既に上級生に混ざって稽古をしており、2年生より上手にやっているのを見、てっきり上級生だと思って丁寧な挨拶をしたことを今でも覚えています。 そして何よりも魅力的だったことは、空手部は本校とも一緒で、体育会に所属している点でした。同じなら本物をとの気持ちが強く、夢一杯で私の空手人生が始まりました。新入部員が工学部だけで150人以上いたと記憶しています。 そして連日厳しい稽古の連続でした。何しろ1年生を厳しい練習でふるい分ける訳です。連休の頃には50~60人、夏の合宿に参加したのは30人以下でした。とはいえ通常稽古以外は本校と合同だったので合宿参加者は全員で100名以上と壮観でした、突き蹴り円陣で一周1 人の号令が10本、要するに1,000本、突き1,000蹴りの毎日だったわけで、それが今日につながっていると思います。上下関係も4年天皇・3年貴族・2年平民・1年奴隷と憚らずに公言した時代です。同期の結束は大変強いものとなり、今でも同期会を開いて集まっています。 ・コーチ・監督・審判員 そのような4年間があっという間に過ぎ、大学卒業と同時に勤務で青森へ2年間赴任をし、東京に戻ってきて、それ以来コ-チ・監督として空手部と共に歩んできました。 近藤・児玉両先輩に誘われ審判の講習を受けたのが1971年だったと記憶しています。その後、本校の瀬戸口先輩に誘われ、学連に出させていただくようになったのが1975年の春からです。以来学生空手道連盟審判員とし空手の修行を続けて参りました。同期の仲間からは、現役時代一番稽古をさぼっていたお前が・・・と度々言われてきましたが、44年の月日が経ってしまいました。 そんな44年の中で、1980年にOB会より監督をするようにとの指示を受け、2005年まで監督を全う出来ましたことは、ひとえに多くの先輩の暖かいご指導と沢山の後輩の援助があったからと深く感謝をしております。 監督時代には工体連・本校を問わずに多くの学生と稽古をし、合宿や試合の遠征と様々な思いでもあります。その一つ一つが私の空手の修行と思うし、その過程において選手のがんばりにより、理工科系大学空手道選手権大会で結果を残せたことも楽しい思い出です。部員総勢4名で理工化系大会の優勝は特に印象深いものです。 学生との空手だけでなく、地元での空手指導も私の空手人生の片方の大きな輪であります。子供や一般の方に指導することで日本体育協会の沢山の講習会に参加する機会に恵まれ、様々な資格も取得しました。 そのために、部員の障害保険の問題や、指導者の賠償責任保険についても考えささられることが多く、対処も出来てきたと思います。今の時代、ボランテイアだからといって全てが通る時代ではないのです。それなりに指導者として安全対策を考えなければいけないことも知りました。 現に部員が学連の大会で尾骨骨折をした時、大会の保険と学校の保険だけでは全く足りない事が判り、その事故以降スポーツ安全保険の加入を学生に指導してきました。事故があるのは困りますが、万一事故が起こった時の対策は指導者の務めだと思います。 ・8段位取得!! 同時に審判として、関東学生連盟・全日本学生連盟の審判長も務めさせて戴いたことも大変な糧となっております。空手の段位も卒業後取得し、昨年の11月全日本学生空手道連盟昇段審査において8 段位を取得する事が出来ました。気力体力の続く限り、空手と歩み続けようと考えています。そして、工体連空手部では師範の立場で学生に正しい空手を伝えてゆきたいと思います。 私が入部した頃の空手部と今の空手部では、部員数も社会情勢も全く様相が変化し、何よりも部員そのものの考え方、価値観が大きく変わってきております。しかしながら、今の部員は今なりに一生懸命頑張っております。法政大学体育会空手部も工体連空手部も永遠に変わることがないと信じております。 今まで以上に、本校の空手部と力を合わせ、2部体育会空手部も巻き込み、オ-ル法政空手部としてかつての強い空手部を復活すべく、部員一同頑張って稽古に励もうと思います。OB諸先輩方ももう一度空手と触れ合って下さい。お願い申し上げます。共に空手を楽しみましょう!

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